健康

2004.09.29

メディカルとデザインの周辺-1

1994年に私が事故に遇ったとき、某国立病院に入院したのだが、清潔さや看護婦の対応の悪さにがっかりした。1993年にタイに行ったとき、食中毒で入院したことがあるが、病院の清潔度、部屋のゆったり度、全てがホテルのようで、そんなメディカルをサービスしている病院がタイ・バンコクにあることを経験上知っていたため、先進国といわれる日本で、こんなにも医療サービスが遅れているのかと余計に驚いたのだ。

1999年の冬から2000年の春まで文化庁の派遣でニューヨークのITとデザインを学びに行っていた。当初、セントラルステーションからちょっと郊外の街に住んでいたのだが、その時にたまに妻を呼び寄せ、ニューヨークの街を探検したりしていた。彼女が3回目くらいのアメリカ訪問の際、彼女の母(現78才)も同行してアメリカ見学を親子水入らずで行った。

そんなある日の夕方、夜に向けて庭でパーティーをしていた時のことである。彼女の母がバーベキューの取り皿に焼き上がりの串を入れてもらい、皿を持ったままその白い陶器の面を見つめていた。それが5分近くも続いていただろうか、私は少し不気味さを感じた。話しかけても目が動かないからだった。何か変だなと思ったが、旅の疲れもあるのか、それとも老人性の何か病気の前兆なのかとも思った。もともとあまり話さない人なので、異国の地で不満なところがあったのかとも考えた。
派遣も終り、東京に戻りしばらくして、やはり妻から自分の母親の状態が少しおかしいので、病院に連れていったところ、パーキンソン病であるとの知らせを聞いた。私も心配になり、会ってみたが、思ったほどの重症ではないもののニューヨークでの直感があたっていた。妻と私の心配があたってしまっていた。それから妻は時々実家に帰って母親とできるだけコミュニケーションを取るようにしたり、私達3人で温泉に誘い出したりして、できるだけ脳や感覚が働くようにしていったが、半年ごとに症状が進んでいるような気がしていた。
そんなある日事故はおこった。妻の弟の車で義母が皆といっしょに出かけしばらくして帰宅した時、車をガレージに入れる前にドアを開けてあげ、外で待ってもらっているはずが、一人でふらっと歩き始めた時に転んでしまったのだ。骨祖鬆症気味のこともあったのだろう、足の大腿骨を折ってしまった。救急車を呼んだがいくつもの病院に断られ、妻と相談した結果、妻も見舞いに行きやすいこともあり、青山近くの病院になんとか入院させた。 ¥私も何度か見舞いに行ったが、みるみる内に肌のツヤはなくなっていき、言葉も反応も少なくなっていった。入院当初、食事はある程度一人でできたのだが、入院が長びくにつれ、夕御飯を食べるのに1時間半もかかってしまっている。骨だけならばもうくっついて完治しているのだが、床に伏していたこともあり、足の筋肉はげっそりと細くなり車椅子が欠かせない状態になってしまった。2-image1.jpg
そんな義母を見ながら私は病院の機能性部分にもまだまだ未対応の部分があるな、ましてやエモーショナルな部分での対応はあったものではない、と思った。一日で一番楽しいはずの食事の食器類、もちろん味も空間も車椅子もベットも壁の色もである。わたしはバンコクの病院と、ここでも比較していた。病院の中の治療は、保険制度という便利で安心なシステムがあるので、日本同様の治療の場合、だいたい患者の支払う金額は同じ程度であるはずだ。ここに「まあ、こんなもんですよ」という日本の医療サービスの一歩踏み出せない理由もあるかとも思うが、今後は私達デザイナーが力を合わせて、病院の現場にも力を出すべき分野はかなりあると考えた。死を予防する。死から守って元気にする。ということもあるが、死に向かっていく事を人生の一部として受け入れながら、残された時間を生きていかなければ行けない人達もいるのである。その事は大切で、病にならないデザイナー、いや人は、いないはずである。

Works

ネットでイタリアと東京を結ぶ、番組を10年前1997年に制作していたんだ。

凡人デザイナーのオムニバス(グラフィック編-1)

アップルコンピュータの貴重サイン

実は、広告、CM制作の為に、月の不動産を所有しています。

東京工芸大学からのインタビュー

BIO-MORPH-MUYBRIDGE

Infini-Dポスター

アルケミア

東映三国志ポスターCG制作

LOVE MOTHER EARTHのポスターを制作する